江戸の「秩序」を担った奉行所
蔦重をめぐる人物とキーワード⑭
■幅広い役割を担い幕府の統治を支えた奉行所
江戸時代の奉行所(ぶぎょうしょ)は、都市の秩序維持と司法機能を担う重要な機関だった。治安維持、民事・刑事裁判、行政業務を複合的に行い、市民の生活を支える役割を果たしていた。
奉行所の起源は、徳川家康が関東に入府した1590(天正18)年に遡る。家康は江戸を関東の要と定め、積極的に城下町の開発とともに行政機構の整備を図った。当初は臨時の役職として奉行が設置されていたが、幕府成立後の1603(慶長8)年以降、正式な役職となった。その後、都市の発展に伴い、業務も拡大。1650年代には、北町奉行所と南町奉行所が設置され、月ごとに交代で政務を担当する月番制が導入された。一時的に中町奉行所が設置されたこともあったが、短期間で廃止されている。
町奉行は、主に幕臣の中でも位の高い旗本(はたもと)が任命され、実務を担った。老中の指示を受ける場面もあるが、基本的には独立した権限を有する。
配下には与力(よりき)、同心(どうしん)が配置された。与力は現代でいう警察のような役割で奉行を補佐した。同心は行政事務を担当する役どころで、町を巡回したり、事件の捜査を行なったりした。町奉行と町人との間は、町人から選ばれた町年寄や町名主が取り次ぎ、町内の自治を支えた。
町奉行の業務は広範で、犯罪捜査や取り調べだけでなく、町人同士の民事訴訟や刑事裁判、火災の消防活動、道路や橋、河川の管理に関与するなど多岐にわたった。
1742(寛保2)年には「公事方御定書(くじかたおさだめがき)」が制定され、奉行所の裁判基準が明確化されている。これにより、法の統一化が強化され、かつ司法の公正化が図られた。奉行所の裁判に合理性が求められ、市民の訴訟対応の場としての役割が確立されたのである。